少年よ、何を思うのか
今日は、いつものおバカネタとは違って、少年事件等についての真面目な話なので興味ない方はスルーしてくださいまし。
先日から大阪・奈良と、少年による殺人事件が続いてるところに、さらに島根県でも中学生による父親殺害事件が。
前の職場にいたとき、最後の1年間に担当した上司が少年事件を扱っていたので、その流れで私も何件か担当したのですが、そのうちの1件が殺人でした。
もちろん家庭環境がすべてではないと思うし、家庭環境が悪いからといって人を殺していいわけないんだけど、そのケースの家庭環境はほんとに気の毒なぐらいひどくて、「この親に育てられたら善悪の判断つかなくなるのかも」と思うぐらい親がおかしい人たちでした。家庭環境のひどさについては我が家もかなりのものですが、そういう次元じゃなく親がヘン。
まぁ全部親のせいにしてはいけませんが。
そのケースの場合は、殺された側にも落ち度というか、「ちょっとそれはどうかと思う」というような点があったようで、そのへんも裁判では考慮されたようですが、今回の大阪・奈良の事件も含めて、なんでみんな「殺さなくてはいけない」と思いこむのでしょうか?島根の件はまだ情報が少ないのでなんともいえませんが、どういう事情があったにせよ、誰か(家族を含めた第三者)に相談するとか、勇気を出して本人(当事者)と話し合うとか、そういう解決方法を模索したことがあったのか、しようとする努力をしたうえでの決断だったのでしょうか?
私自身、テレビはなくてもいいけどインターネットがないといきていけないぐらいネット依存症なので、ネットやメールに依存する気持ちもわからないではないですが、メールが一般的な通信手段になってからというもの、一般的にコミュニケーション力が低下してきたのではないかと思わずにいられません。
仕事の連絡も、メールですむところは済ませるようになり。
対人関係においても話したくないことはメールで送りつければいいや。返事もメールでいいし。
嫌いな相手からかかってきても着拒したらいいや。
そういう経験、私も含めて誰しも一度はあるのではないでしょうか。
10年ぐらい前ですが、携帯メールが普及してきたころ、「別れ話をメールでされた」という子がいました。
その話を聞いた時、そんな大事な話は面と向かってすべきじゃないの、と私は勝手に憤慨していましたが、思えばそのころからそういう兆候があったのかもしれません。
ネットやメールが日常的にある環境がすべて悪いとか、そういうことじゃないんですけど、うまくいえませんがそういうのも一因になっている気がしてなりません。
極端な話だけど、昔昔、まだ冷蔵庫もテレビも洗濯機も、いやそれどころか電気もなかったころ、みんな夜は早く寝て朝は早く起きて仕事。
娯楽も24時間営業のコンビニもないから早く寝るしかなかったのかもしれないけど、そういう環境ですからもちろんCO2も地球温暖化もなく。
時代劇を見るたびに「こういう時代のほうが幸せだったのかも」と思ったりします。
もちろん、電気もガスも水も使いたいときに使える便利な時代と場所に生まれた私に耐えられるはずもないと頭ではわかってるんですが。今更洗濯板で真冬に洗濯とかありえへんし、蝋燭の明かりで夜なべとか、お風呂(五右衛門風呂ー!?)もトイレも屋外とか、そんなんイヤやし、もちろんパンもないし!(結局そこかい!)
でも。
早寝早起き、汗水たらして働いて、旬のものを旬に食べ、適度に早く死に、高齢化社会も年金も関係なく、人生をまっとうする。
そういう生き方にあこがれたりします。
昔にももちろん悪い人もいたろうし、強盗殺人事件等は日常としてあったでしょう。ある意味、殺し合いそのものの件数は今より多かったかもしれません。でも理解に苦しむような殺人事件ていうのはあまりなかったのではないかと。
実際見たわけじゃないけども。
いずれにせよ、だんだんと社会全体がゆがんでるような気がする今、ふつうに生きていくだけでも難しいのかもしれません。
そもそも普通の定義とか基準って・・・・・?
以上、真面目ネタでしたので明日からまたおバカに戻ります(笑)
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